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p143 宇田雄一「古典物理学」
このページの上端へ行く ホーム 前のページ 次のページ 宇田雄一について
【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」値打ちがある(§1-1-2)のは、Ωとkが以下の条件を満たす場合のみだ。∃f,g∈F;f(Ω-k)=g(Ω-k)and f(k)≠g(k) and L(f) and L(g) and (h=M(f))また、【3】の中に現れる二つの⇒は、§1-1-2の⇒とは違う。【3】ではh⇒yによってnot(h and not y)ではなく、hの中にyが読みとれる、という意味を表そうとした。これで私は原因という語を、それよりもっと基礎的な、可能という語を使って定義したことになる。これは、原因という概念を最基礎概念とは見なさないという立場を私がとることを意味する。私の原因の定義に可能という語はあらわには出て来ないが、Lを使ったことが実質的にはこの定義が可能という語に依存していることを意味する。歴史に「もし」は禁物だという意見を聞いたことがある。しかし、私に言わせれば、歴史の中の因果関係について語るときには、常に歴史における「もし」を語っていることになるのだ。それは、ここでの原因という語の定義からも分かろう。xがyの原因だというのは、もしxでなかったらyでなかったろうと言うことだからだ。私は、歴史に「もし」は禁物だという考えがそれ自体間違いだと言っているのではない。歴史に「もし」は禁物だと言っておきながら、原因についても語るという態度は、一貫性を欠くと言っているだけだ。歴史に「もし」を持ち込まず、原因についても語らないと言う態度は一貫している。そのような態度は、マッハの「自然界には原因も結果も存在しない。自然は一回しか存在しない」という言葉に、強烈に表されている。本書の文脈で言えば、これは「可能」という語をいかがわしいものとして排除することに相当する。原因という語の定義は可能という語を用いて行われるのだから、可能という語を排除すれば、原因についても語れなくなる。可能という語を基礎未定義語と見なさない立場については、§4-2で詳述する。原因という語をこのように定義した後で考えてみると、何事にも原因があるという因果律のもともとの意味は、自然が準マッハ模型によって記述されるという事とほぼ同義だと言えよう。因果律から準マッハ模型へと頭を切り替えることは、原因結果のつながりでものを考えることをやめて、関数関係で置き換えて行く態
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