【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」語習得(§4-3)も、生への欲求があって初めて成り立つものなのではなかろうか。そう深刻に考えずとも、プラグマティズムは、物理法則の真偽ではなく法律や道徳規準の妥当性を問題にしているだけなのかもしれない。ともかく、このような様々の立場があることを知ると、本章での考察は、かなり限られたものであると言わざるを得ない。本書で私は、全ての問題について論じたわけでもないし、一つの問題について全ての可能性を論じたわけでもない。しかし、本書で提示した知識や私見は、哲学上のどの立場を支持すべきかを判断する材料になると思う。前書きに述べた哲学的思考の原料とは、このことだ。電磁場は物質ではないが、精神的・生命的なものとは言えそうにないので、古典物理学は唯物説を支持していると見るべきだろう。唯物説の定義として物質・存在という語を用いるよりは、存在という語の代わりに客観事象という語を用い、物質という限定も避けて、客観事象の全てに共通の本質を非精神的・非生命的なものと考える立場を唯物説と定義した方が、現代的だろう。§2-5-3で「力」という語に対してしたのと同様の議論を、例えば「心」という語についても考えて行くことにより、唯物説の可否を議論できる。§1-6参照。∃H1,H2:自然全体の歴史;「H1におけるのとH2におけるのと質点の運動や電磁場の歴史は全く同じだが、H1におけるのとH2におけるのとでは人の心(気持ち)の歴史が異なる」この命題が真なら唯物説は誤り、ということになる。質点の運動や電磁場の歴史が全く同じということは、人の身体(脳も含めて)を作っている質点の運動や、その近辺の電磁場の歴史も含めて全く同じということだから、唯物説を否定するのはナマヤサシイことではない。@については、「可能」を本質的可能(§4-2)の意味に解釈するなら構成説、表現上の可能(§4-2)の意味に解釈するなら模写説を、古典物理学は支持していると見なせないか。Aで経験説を採りつつ実証性の追求と客観性の追求の妥協点を何処に置くか決めることは、Bで実在説と観念説のどちらにどの程度味方するかを決めることに当たろう。古典物理学においては「実在する」という語が用いられるから、古典物理学は実在説を支持していると考えてよいのではないか。とすれば、古典物理学では実証性よりも客観性の方が優先されていることになる。実在説の定義についても、存在という語を避け、「客観
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