【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」ムが存在する場合に限り、その文章はセルフ・コンテインドに書かれている、という条件を置いて良かろう。4つの文字abcdだけで書かれた文章であれば、例えばaをbに、bをdに、cをaに、dをcに書き換える。ただし、文章の全体にわたって同じ書き換えの規則を適用しなくてはいけない。最初の方ではaをbに、bをdに、cをaに、dをcに書き換えるが、途中からはaをdに、bをaに、cをbに、dをcに書き換えるというのはいけない。また、異なる文字は異なる文字に書き換えなくてはいけない。aをdに、bもdに、cをaに、dをcに書き換えるというのはいけない。以上のことに気を付けさえすれば書き換えは全くデタラメでよい。自称セルフ・コンテインドの専門書も、この基準の前にあっては、全くセルフ・コンテインドとは言えないだろう。セルフ・コンテインドか否かという問題を、鍵なしで解読できる暗号になっているか否かという問題として理解することもできよう。ただし、ここで言う解読は一意的な解読だ。二つ以上の解釈が許されるような暗号ではいけない。実用上の暗号では、いかにして解読されにくい暗号を作るかが追求されるのに対して、セルフ・コンテインドな理論を書こうとするときには、如何にして解読され易い暗号を作るかが追求される。地球外文明にメッセイジを送るときには、この種の努力が必要だ。数学の文献の記述は、公理の提示から始まる。公理から出発して様々な定理を導出証明して行く。公理以外には何も仮定しないとされる。公理はまさに語や記号の用法を定めるものだ。それ以後に述べられる定理はすべて、公理で設定された用法に忠実に語や記号を運用して行けば、必然的に導かれるものとされる。それでは、数学の文献に出てくる全ての語の用法は最初に公理として完全に説明されており本全体はセルフ・コンテインドに成っている、と言えるだろうか。その具体的状況を見てみよう。まず「公理」とか「定義」とか「証明」という語が説明されずに用いられる。これらは、メタ言語と呼ばれる。また∀や∃の説明が為されているか、またはそれらが説明無しで用いられている。これらは論理記号だ。それから「集合」などの数学特有の基礎未定義語が用いられる。これらがあるために、セルフ・コンテインドさについての上述の判定基準を適用すると、数学の
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