Google
WWW を検索 古典物理学内を検索
325ページ
325ページ ホーム 前のページ 次のページ 印刷用PDF サイトマップ
p325 宇田雄一「古典物理学」
このページの上端へ行く ホーム 前のページ 次のページ 宇田雄一について
【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」4-3物理論理学,今度は、物理理論がわけの分からぬ部分を含むかどうかを、物理理論がセルフ・コンテインドに書かれているかどうかという観点から考えてみる。セルフ・コンテインドとは何か。物理学の専門書を見ると時々、「この本はセルフ・コンテインドに書かれているので、予備知識が無くても読める」という風に書いてあることがある。セルフ・コンテインドとは、自己充足という意味だ。ここでは、このセルフ・コンテインドさを、偏執狂的に追究してみる。本書の第二章で挙げた理論は、どれもセルフ・コンテインドではない。なぜなら、数学用語や論理学用語を含んでいるくせに、それについての説明がないからだ。数学用語や論理学用語の定義は各節末や第一章に書いておいた。それでは、各節末や第一章の説明を第二章の各理論に付け加えれば、セルフ・コンテインドと言えるだろうか。ここからが本論だ。数学用語や論理学用語というものは日常語よりも厳密なものであって、厳密な数学用語や論理学用語が非厳密な日常語に立脚しているはずがない、と普通は考えられる。しかし、セルフ・コンテインドさという観点から考えてみると、数学の本も論理学の本も純粋の数学用語や純粋の論理学用語だけで書かれているのではない。それは英語で書かれた本であったり、日本語で書かれた本であったり、ドイツ語で書かれた本であったりする。すなわち、それらの本は日常語を含むのだ。記述を柔らかくするためにそうなっているだけで、絶対にそうする必要があったというわけではない、と言えるだろうか。もし日常語がどうしても必要なのだったら、第二章の理論に数学用語と論理学用語の説明を付けても、セルフ・コンテインドには成らない。それを読みこなすためには、日本語の予備知識が必要だ。文字式の説明を日常語無しで書くなんて絶望的だ。§4-1と§4-2では、わけが分からぬという批判の矛先を物理用語のみに向けたが、本節では、わけが分からぬという批判の矛先を数学用語や論理学用語にも向けることによって、セルフ・コンテインドさを追求する。セルフ・コンテインドさの最もシヴィアーな判定基準として、文章中に現れる全ての文字をでたらめに入れ替えても、それを見て元の文章を復元するアルゴリズ
物学正典 初等力学正典 電磁気学正典 相対性理論正典 解析力学正典 量子力学正典
(C) Yuuichi Uda. All rights reserved.