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p328 宇田雄一「古典物理学」
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【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」っていない、すなわち言語の用法を言語だけで完全に説明することは出来ない。国語辞典は定義の書ではなく、色々な語の関係を表した書だ。and,or,notや「任意の」「ならば」等の論理学用語は定義されない日常語そのものだ。日常語の中から、最も信頼できるものだけを取り出したものが論理学用語だと言える。言語的な方法のみに頼って日常語を定義できるかという問題は、日本語を知らない英国人と英語を知らない日本人が文通のみによって、世界初の英和辞典や和英辞典を作ることが出来るかという問題と同じだ。出来ないだろう。ただし、絵を使ってはいけないものとする。手紙の枚数から数詞を伝える類も禁止しておく。それにも関わらず、ほとんどの人が自分の属する文化圏の日常言語を基本的な部分においては間違わず確実に使用できるのは、突き詰めれば、幼児期に親から受けた身体的な教育による。これは学齢期に達する前のことで、学校では、そのような言語能力を前提として授業が行われる。小学校一年生を受け持つ教師といえども、日常言語についての予備知識を全く持たない児童に、言葉だけで言葉を教えることは出来ないだろう。日常言語も含めて言語の全体がセルフ・コンテインドでないということは、言語がいかがわしいものだということではなく、言語の習得や伝達が、究極的には言語外の行為や事象に依存しているということだ。「コンセントが抜けているならば、スイッチを押してもテレビはつかない」こういった具体的状況をたくさん経験することによって幼児は、「テレビ」「ならば」といった語の用法を徐々に習得して行く。実際に自分の直面した状況において用いられた言葉でなければ、ただ紙に書いてある文字をいくら眺めていても、言語は習得できないだろう。このように、論理学や数学は物理学とは独立に成立しており、それらの言語が物理世界を超越した普遍性を持ち、物理学理論は数学や論理学の特殊な適用例に過ぎないと考えるのは怪しい。論理学の体系は、人間が置かれている物理的状況に依存しているのではないか。とすれば、高度の物理学理論も、自然を言語で模写したものと言うよりは、非日常的な現象を日常的な経験に還元して理解するものなのではないか。擬人化ならぬ擬日常化だ。
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