【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」4-4恣意・自明・経験の三要素,まず、固有名詞や普通名詞とか経験文という言葉について、補足説明をする。本書では、例えば「Pは質点だ」という文を経験文とし、Pを固有名詞、質点を普通名詞と呼んだ。この文が経験文だという事は、この文が、Pを空欄とする文字式(§1-1-1)についての但し書きではないということだ。「Pは質点だ」においては、Pは予約語(§1-1-1)として用いられている。「Pを質点とする」とは違う。§1-1-2参照。本書では名詞をすべて、固有名詞か普通名詞かどちらかに所属させて考えることにした。3は固有名詞、実数は普通名詞、sinは固有名詞、関数は普通名詞、電子は固有名詞、質点は普通名詞という具合だ。Pが固有名詞だというのは、Pが電子と同じ種類の名詞だと言うことだ。電子を通常は固有名詞とは言わないだろうけれど、本書では固有名詞と考える。その理由は、同と等の区別を取りやめた(§2-2-3)ことにある。どの質点をPと名付けたかは全く、理論の筆者の任意の意志によるものとする。筆者は電子のことをPと呼んでいるかもしれない。「(S,U,I,J)がガリレイ系だ」という文が経験文で、S,U,I,Jのそれぞれが固有名詞だと言うときにも、「Pは質点だ」という文についてと同様のことが言える。筆者がどの質点をPと呼んでいるのか、どの時空座標系をSと呼んでいるのか、どの電磁座標系をUと呼んでいるのか、どの質量座標系をIと呼んでいるのか、どの電荷座標系をJと呼んでいるのかを、理論から知ろうとすることは、理論全体をP,S,U,I,Jを変数とする方程式と考えることに当たる。次に、物理理論の恣意性について考えてみる。自明文を省略しても理論の論理的内容は減らない。自明文を削除した文は元の文と論理的に同値だ。自明文は読者の演算能力を補う、あるいは読者の演算の手間を省く、ルビのようなものだ。筆者自身が読者と成ることもある。したがって、自明文をどのくらい書き加えるか、あるいは何処まで削除するかは、恣意的な選択の問題となる。自明とは言っても、言うに値しない当たり前の事という意味ではない。本書の言い方では数学の定理は全て自明文なのだから、数学の定理の発見や証明に如何に多くの才能が必要だったかを考えれば、そのことは分かる。§2-1-2の理論をそれと実質的には同内容
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