【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」パチンコ玉や宝石などの巨視的な物体については、二つの物体がいかに似ていようとも、必ず些細な点においては異なっているはずであり、それらが全く同じであるはずがないということを盾にとって、「同と等の区別」の怪しさを正面から論じることから逃げることが出来る。しかしそれは、その場しのぎの言い逃れであり、正真正銘の質点の同一性について考えるときには、もはやそのような言い逃れは通用しない。こうして、P1,・・・,Pnの中に等しい質点があれば、T2(n≧2)とT4(n≧2)とT5(n≧2)においてMが一対一写像でないこと、を示せたことになる。T1,T2,T4,T5やT02,T04,T05では、固有名詞を使って質点に名前を付けているが、これは、質点に個性を認める立場に良くなじむ。質点に個性を認めるとは、質点は質量と電荷という量的な特徴の他に質的な特徴をも持っている、と考えることだ。質点という概念が、天体や小石からの抽象によって得られたであろう事を考えれば、質点に個性があると考えるのも無理のないことだ。しかし、天体も小石も厳密な意味での質点ではない。それらは非常にたくさんの質点の集まりだ。さらに、天体や小石が無個性な質点の集まりだと仮定しても、天体や小石の質量と電荷以外の特徴が、少なくとも原理的には導出され得るということを考えると、質点に個性があると考える根拠は、現在では雲散霧消していると言えよう。ただし、物質を無個性な質点の集団と考えて、色々な物質の性質を導出することは、かなりの部分が、古典論によってではなく量子論によって行われる。また、現代素粒子論においては、素粒子に質量と電荷以外の量的な特徴(例えばスピン)を認めるが、これらも個性というほどのものではない。個性と言うからには、量的なものではなく、何か質的な独自性でなくてはいけない。そこで、質点に個性が無いという認識に至る過程を私は、「質の捨象」という言葉によって標語的に表したい。「質の量への還元」とでも言った方が良いか。質の捨象を経た後では、T1,T2,T4,T5やT02,T04,T05よりもT12,T14,T15やT22,T24,T25の方が自然な理論だと言えよう。T12,T14,T15においてはMは一対一写像ではないが、T22,T24,T25においては、Mは一対一写像だ。
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