【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」は自分が確認を誤ったことになるが、後者では自分の外で誤りが起きたことになる。自分の外で起こったことを誤りと呼ぶべきかどうかすら疑問だ。脳の働きが故障する(例えば筆算で誤る)こともある。その場合には、前者でも後者でも自分が確認を誤ったことになる。確認を誤るのは、確認の直接性が、まだとことんまで押し進められていないからだ、と考えられる。感覚神経に故障が起きて感覚器官への刺激の確認を誤っている時でも、感覚神経の脳への出力は直接だから正しく確認される。究極の直接性を備えた確認は、また確実性をも備えているはずだ。確認の直接性を押し進めることは自分の内と外の境界をどんどん内側へ内側へと後退させて行くことに当たる。図形的には、脳より内側にその境界を後退させることは出来ないだろう。しかし言語的には、脳全体よりも小さな機能領域を指して、それを自分だと言うことが出来るのかもしれない。この考えは私たちの自分に対する捉え方を柔軟なものにする力を持っている。身体より外まで自分を広げて考える発想すら出て来そうだ。サイヴァネティックスを連想する。もっともサイヴァネティックスは、確認という受動的な側面からの自分の範囲の規定に基づくものではなく、意思の反映という能動的な側面からの自分の範囲の規定に基づくもののようだ。自分を縮めて行けば、最終的には、デカルトのように、直接確認できるのは自分が実在することだけだ、という結論に近いところまで行く。空間的にだけでなく、時間的にも自分を縮めて行くと、直接確認が各私にまで狭められて解釈されるときには、歴史全体を確認することは出来ない。特に過去と未来について直接確認することは出来ない。未来については言うまでもないだろう。過去については、記憶と呼ばれる脳の現在の状態が確認されるだけだ。この考え方は、仏教の刹那思想の動機ではないか。ゼノンのパラドックスの発想にも通じる。デカルトに近い結論というのは、直接確認できるのが主観文によって表される事象だけだという結論だ。「私には・・・に見える」とか「私は・・・と感じる」という文を主観文という事にする。私は自分が実在すると感じている。私には赤い光が見える。私は悲しいと感じる。私は嬉しいと感じる。私は痛いと感じる。これらの文を主観文と呼ぶことにする。主観文で書かれたことは各私にとって直接確認できる。確認できるのは感じたり見えたりしている間だけで、それ以前で
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