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p313 宇田雄一「古典物理学」
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【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」訳規則から、主観文で書かれた正しいと分かっている法則を、演繹的に導き出せるならば、その主観文と客観文とは同内容だとみなし、その翻訳規則を採用すればよい。これは法則が言葉を決める例にもなっている。主観文で書かれた法則を導き出せるように翻訳規則を定めて行くのだから、その翻訳を通せば物理理論が経験事実に一致するのは当たり前のことで、物理理論を経験的に確認したことにはならないのではないか。そうでもない。どんな物理理論に対しても主観文で書かれた法則を導き出せる翻訳が存在するとは限らないから。それが存在するか否かを確認することには意味がある。主観文で書かれた法則を導き出せる翻訳が存在することを持って、物理理論の実証性と考えることが出来る。日常語を物理語に翻訳するということが科学史では起きた。色を波長に、温度を二乗平均速度に、音の高さを振動数になどだ。これらは主観文を客観文に翻訳したのとは違うが、かなりそれに近い。翻訳の結果、何か主観文で書かれた禁止事項というものが出て来れば、確認できる何事かを物理理論が含んでいたことになる。しかしそのような希望は持てそうにない。何でも有り、すなわち法則なし、というのが主観の世界では無かろうか。幻覚剤やヴァーチャルリアリティーを考えればそのことが直ぐ分かる。すなわち、主観文だけで何らかの厳密な法則を書くことは出来そうにないということだ。量子論は主観文で書かれた理論なのか。量子論では測定という言葉が用いられる。これを本書で私が用いた確認という言葉と同じ意味に解釈すれば、量子論は主観文で書かれた理論だと言えよう。量子論が実証主義的だと言われるときにはそういうニュアンスが伴う。しかし、測定の意味を各私による確認というところまで狭めるのは行き過ぎだというのが、大方の物理学者の意見だと思う。私も、その辺りが妥当だと思う。結局、確認の直接性という事を厳しく言い過ぎると、物理理論は直接確認できることを何も含んでいないのだ。断定するのは危険かもしれないが、ここでは一応こう結論しておく。直接確認できる領域を狭めて行けば客観性が疎外され、基礎未定義語を増やして行けば、実証性が疎外される。あちらが立てばこちらが立たぬ。客観性も実証性も科学理論の魂だ。どちらが無くて良いというものでもない。
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