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p323 宇田雄一「古典物理学」
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【SEOテキスト】宇田雄一「古典物理学」【2b】∃η∈N01;∃ε>0;∀a∈N01;|a|<ε⇒【2b1】and【2b2】【2b1】f(η+a,N3)=g(ξ+a,N3)【2b2】∀k∈{1,・・・,n};【2b2a】⇔【2b2b】【2b2a】[ξ+a](3)=g([ξ+a]({4}),3,k)【2b2b】[η+a](3)=f([η+a]({4}),3,k)経験文は[1][3][5][7][9][11][12][13][14][15][16][17][20][21]、恣意文は[2][4][6][8]および[10][18][19]、自明文は無い。[21]における⇒は§1-1-2の⇒です。§2-2-1の局所性の説明のためのたとえ話を思い出して欲しい。審判員に半径ε[cm]の円盤状の絵を渡して、審査される絵の中にそれと同じ模様が含まれているかどうかを、同じ大きさの穴から覗いて調べてもらう。審査される絵は現実の歴史を表し、半径ε[cm]の円盤状の絵は小さな時空領域で起こる事象を表す。もし審判員が円盤状の絵と同じ模様を審査される絵の中に見つけたならば、円盤状の絵で表される事象は可能だと判断できる。このときの「可能」が表現上の可能だ。表現上の可能を含む文は、可能という語を用いずとも他の語を使って言い換えることが出来る。ただ表現の方法として、可能という語を選んだだけなので、表現上の可能と呼ぶことにする。これに対して、基礎未定義語の「可能」を本質的可能と呼ぶことにする。本質的可能は他の語で言い換えることが出来ない。人間が何らかの経験文を見て、それが本当に可能かどうか実験装置を組み立てて確かめるときには、表現上の可能を確かめていることになる。なぜなら、実験者は、実験装置を使って自然全体の歴史を引き起こすのではなく、小さな時空領域内にお目当ての現象が起きるか否かを確認するだけだからだ。自分では現象を引き起こしているつもりでも、その行為自体が自然全体の歴史の一部となっており、実験者は、自然全体の歴史を変えたわけでもなければ、それに何か新しい現象を付け加えたわけでもない。§2-1-6で述べた「自然は一回しか存在しない」というマッハの言葉は、本質的可能という概念が実証的でない、という批判になっている。本質的可能は、自然全体の歴史についての判定基準だから、これを確かめようとすると、自然全体の歴史をもう一回、いや何回もやり直してみる必要があるからだ。「自然は一回しか存在しない」というマッハの言葉が、「自然界には原因も
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